どれほどの時間をそうしていたのだろうか。壁に上半身を預け、ガラクタのように投げ出した体は冷えて感覚がない。泣き腫らした瞼は重く、涙が乾いた頬は熱を手放していた。ひどく体が怠い。気道に鉛でも詰められているような、そんな重苦しさが四肢を床に縫いつけている。そんな体の感覚に反し、胸中は、在るべきものをごっそりと奪われた喪失感に支配されていた。

Nは、また来るようなことを言って10分ほど前に出て行った。ゾロアをポケモンセンターに連れて行くと言っていた気がする。……正直、そんなことなどどうでも良かった。鼓動の音すら聞こえてくるような静寂は、ここには自分以外存在しないのだと嘲笑っている。目の前にあった日常を一瞬にして砕かれた事実に、もうこの家には私しかいないという現実に、押し潰されてしまいそうだ。物音1つしない部屋の中で、むざむざと孤独感を飲み込んだ。
泥が詰まったように濁った意識の奥で、感情がどろどろに攪拌される。しかしそこから剥離した理性とも知性とも取れない明瞭とした意識が、ゾッとするほど簡易な答えを導き出した。
泣き疲れて気怠い体を起こす。床板を踏み締める音に、再び底のない孤独感と恐怖が込み上げた。冷静な結論に、感情が煩く纏わりついた。

――何をやってもダメな人間だった。今も昔も、劣等感の塊だった。勉強も運動も人並みで、特別他人に優るような才能もない、詰まらない、人間だった。何処にいても、楽しそうに笑い合う人の波に掻き消されてしまう。そこに自分がいてもいなくても、同じようなものだ。
私がいなくても、平気なのだ。友人も、両親も、誰も困らない。卑屈な考えに取り憑かれ、焦燥感や被害妄想を積み上げていくだけの毎日だった。

(がんばれば、どうにかなるのかなって思ったけれど)

あと、どのくらい頑張ればいいのだろう。どう頑張れば良かったのだろう。離婚の際に私の親権で揉めていた彼らに、私は暗に「不要」なのだと突きつけられている気がした。
だから疲れてここまで逃げてきた。逃げ出した先で、やっと安息を得たのだ。それすら奪われてしまった。彼が奪った。彼に奪われた。彼のせいで壊れた。
――違う。
最初から存在しなかった。嘘だと知りながら、目をそらして目の前の現実だけに縋ってきたのだ。
私が悪い。私のせいで、負担ばかりかけた。私が言ったから。私が願ったから。私が縋ったから。私のせいで。

「しんじゃおうかな」

そんな勇気もないくせに。自嘲するように呟いた。部屋に木霊する声に、静かに感情を飲み下す。
――冷えたドアノブに指をかける。思いのほか冷え切っていた空間に喉が震える。
ドアをゆっくりと押し開けると、軋んだ音が鼓膜を引っ掻いた。埃っぽい乾いた空気がざらりと咽喉を撫でる。
足下に散らばった画材を視界に収め、私はその中を突き進んだ。

ダイゴの自殺した恋人が使っていたアトリエ。
表向きには事故だなんて言っていたが、あれは自殺だ。そう彼自身が言っていた。真冬の海原に身を投げたらしい。しかし遺書が見つからなかった。それだけで誤って転落、事故だったと片付けられてしまったそうだ。
埃を被ったキャンバス、パレットに出され乾燥して固まった絵の具、下書きだったのか、引きちぎられたスケッチブック、床に散らばる筆、水差し。
こんなにも中途半端に生きた証を残した彼女は、どんな気分で海原に身を投げたのだろう。

未来に失望したのだろうか、今に耐えられなかったのだろうか、過去に疲れてしまったのだろうか。
私は死にたいなどとほざきながら、今もこうして生きている。
死ぬ勇気なんてなかった。
誰にも必要されない。私でなくとも代わりはいる。私の死後も、きっと悲しみを引きずる人間も影響を与える人間もない。
誰かに必要とされたかった。
頼れないのも、疎ましく思われるのも、誰の視界に映らないのも怖い。
彼女はこれ以上の苦しみを抱えていたのだろう。ほんの1歩、その勇気に救いを求め、全てを捨ててしまった。

ほんの、一瞬で。

視界の片隅に、ペーパーナイフが映る。おもむろに伸ばした指先は柄を掴み、呼吸を細めた。
それはひどく蠱惑だった。
頭の芯が麻痺する。ペーパーナイフを握り直し、そっと手首にあてがう。
ほんの一瞬だ。
ふ、と呼吸を止め、さらに強くそれを握り締めた時だった。

「何してるの」

手首に圧力がかかる。前触れも気配もなかった。視線を上げた先にある湖面の瞳が、冷めた色を宿してこちらを覗き込んでいた。

「危ないよ」
「え、ぬ……」
「怪我をしてしまうよ」

だからそれを離して、と彼は無表情のまま言葉を続けた。私の手首を掴む彼の指先に力が籠もる。無関心な瞳で言葉を紡ぐ彼に、不意に怒りが込み上げた。

「は……離して」
「name」
「離して」

理不尽な怒りであることはわかる。こんなもの、ただの八つ当たりだ。しかし一度火がついた感情に、歯止めは効かなかった。思考は次第に熱を帯び、苛立ちに呑み込まれていく。理性は焼き切れ、激情に視界が眩んだ。

「name」
「離してよ」
「危ないよ」
「Nには、関係ない」
「何をするつもり」
「関係ないって言ってるの」

無意識に語調を荒げる。彼の手を解こうと、掴まれた腕を乱暴に振る。しかし存外強い力が込められていたその手が、剥がれることはなかった。それが苛立ちに拍車をかけた。

「やめてよ、離して、もう構わないでよ」
「name」
「私から、全部持っていったのに、奪っていったのに」
「!」
「何も、何も無くなっちゃった、何も、なのに今さら」
「name、危ない」
「離してよ!」

振り払おうと捩った体が、側にあるトルソーにぶつかり、けたたましい音を立てる。そのままバランスを崩すと、私の手を掴んでいた彼も誘われるように体勢を崩した。背中から床に倒れ込む。鈍い衝撃が背骨から胸を貫き、緩慢な痛みの波が襲ってきた。巻き込まれて倒れ込んだ彼が、私の体を覆う。同時にトルソーが倒れ、彼の薄い背中にぶつかって落下する。床に転がる木製の頭は、無表情の無機質な眼球をこちらに向ける。痛みに僅かに歪める彼の表情を見上げ、私はペーパーナイフを握る右手に力を入れた。

「ダメだよ」
「!」
「ゾロアの時間が無駄になってしまう」

いとも簡単に、刃物を握る私の手首を床に縫い付けて彼は言った。感情の色1つ宿さない瞳に、私は唇を噛んだ。ふつりふつりと湧き上がる理不尽な怒りに、瞼が熱を持つ。
彼はつまるところ、ゾロアの為に私を止めただけだ。
彼には『私』など関係ない。彼にとってあの小さな命が重要なのだ。
本当はお前なんてどうでもいい、暗にそう言われている気がした。
込み上げてくる激情は、廃れた空気を吸い込み言葉を吐いた。

「偽善なんていらない、もう構わないで、邪魔しないで」
「……」
「私なんかどうでもいいくせに、良い人ぶらないでよ。あっち行って、離して」
「name」
「Nの、Nのせいで、壊れたんだから、Nが壊したんだから、Nが、来たから……っ」

違う。
わかっている。
だけど。
もう。

「もう……疲れた……」

疲れた。
疲れてしまった。
もうどうすれば良いのかわからない。
どうすれば良かったのかわからない。

飽和した感情が瞼から溢れ出る。必死に噛み殺した嗚咽もついぞ喉を突いた。滲んだ視界の先にいる青年を睨むように凝視し、震える声で言葉を続けた。

「もう、疲れた。厭だ。もうやだ。疲れた。……怖い」
「……name」
「……かえって……帰って、構わない、で……もう」

彼は何も言わず、私の指先からペーパーナイフを抜き取った。その表情は、少しだけ痛みに耐えるような憂いを宿していた。
私は声を殺そうと、手首を噛んで咽び泣く。彼はそっと私の上から体を退かし、傍らに膝を抱えて座る。帽子の奥に隠れてしまった表情はわからなかった。

「ボクには、帰る場所なんて何処にもないんだ」

ひどく心細そうに、彼が呟くのが聞こえた。






20111110

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